沖縄から消えた幻の酒“粟盛”
「琉球王国時代に飲まれていた泡盛はどのようなお酒だったのか?」 新たな泡盛の可能性を模索し、様々な挑戦的泡盛を企画していく中で我々は素朴な疑問にぶつかりました。 泡盛の語源には、蒸留後に泡を盛ってその品質(アルコール度数)を確認したことが由来とされる「泡」由来説など様々な説がありますが、『沖縄学の父』として知られる言語学者・民俗学者の伊波普猷氏は、泡盛の原料に米と共に粟が使用されていたことから「粟盛」→「泡盛」に変化したという「粟」説を提唱しました。 実際に、実際に琉球王国時代、王府から泡盛を製造する焼酎職に米と粟が支給された記録が残っており、大正時代の報告書にも泡盛の製造に一部粟が使用されていたことが記載されています。粟の価格の高騰や、生産性の悪さから次第に粟を原料とした泡盛は姿を消していってしまいましたが、粟は戦前の泡盛の原料として非常に重要な穀物でした。
琉球国最後の国王である尚泰の四男であり、文化人として知られる尚順男爵。彼は戦前に泡盛の古酒を『沖縄の宝の一つ』と称えました。200年以上の古酒が存在していたと伝えられる尚順男爵の時代の古酒は粟が使用されていた可能性が高いのです。 粟を原料として使用した“粟盛”は現在の法律上は「泡盛」と呼ぶことが出来ず、単式蒸溜焼酎となるお酒です。しかし、泡盛の原点(オリジン)とも呼べる存在でありながら、現代を生きる誰も飲んだことが無い幻の酒であり、沖縄の酒類文化の歴史を紐解く上でも、大きな価値のある存在であると言えます。 今回のプロジェクトでは忠孝酒造の協力の下に、琉球泡盛の長い歴史とロマンが凝縮された幻の酒"粟盛"の戦後初めての再現・商品化に挑戦しました。
身近な穀物だった"粟"
粟は中央アジアから西アジア原産と推定されており、その原種はエノコログサ(ねこじゃらし)であると考えられています。日本へは米よりも古く伝来し、縄文時代から栽培されている日本最古の穀物の一つです。沖縄でも五穀の一つとして、琉球神話の中に登場し、主食として稲作に向かない地域を中心に盛んに栽培されていました。 また、村落祭祀の中で神に供えたり、粟を原料としたミキ(神酒)が作られるなど、粟はかつて沖縄の人々の生活の中に密着していた穀物でした。
※粟を含む五穀の起源伝承のある久高島
沖縄本島・宮古諸島・八重山諸島の各地域で粘りの強い「もち粟」やさらさらとした「うるち粟」など様々な品種の粟が栽培されており、もち粟はもちもちとした食味の良さから主食として、うるち粟は扱いやすさから主に酒や味噌の材料として使用されていたようです。琉球王国時代、貴族を中心に消費された泡盛の原料として、沖縄の人々にとって身近な穀物であり、米に次いで穀物としての格が高かった粟が使用されたのも自然に思えます。 明治時代には先島(宮古・八重山地域)産の粟が主に泡盛の原料として使用されました。時代が下り米の価格が高騰すると朝鮮半島や満州産の粟も使用されたことが記録に残っています。
沖縄本島・宮古諸島・八重山諸島の各地域で粘りの強い「もち粟」やさらさらとした「うるち粟」など様々な品種の粟が栽培されており、もち粟はもちもちとした食味の良さから主食として、うるち粟は扱いやすさから主に酒や味噌の材料として使用されていたようです。琉球王国時代、貴族を中心に消費された泡盛の原料として、沖縄の人々にとって身近な穀物であり、米に次いで穀物としての格が高かった粟が使用されたのも自然に思えます。 明治時代には先島(宮古・八重山地域)産の粟が主に泡盛の原料として使用されました。時代が下り米の価格が高騰すると朝鮮半島や満州産の粟も使用されたことが記録に残っています。
貴重な「岩手県産うるち粟」を原材料に
日本人、そして沖縄の人々にとってもなじみ深かった粟の栽培ですが、米食が一般化するにつれて、収量が米に比べて圧倒的に劣る粟の栽培は全国的に激減していきました。現代ではわずかに残る粟の栽培も、お菓子の材料などに使用される「もち粟」が主流となっており、かつては主食として盛んに栽培された「うるち粟」も長崎県や岩手県でわずかに商業的に栽培されているのみとなっています。沖縄県内でも現代では、粟の栽培は村落祭祀の際に神に供える為の粟が個人的にごくごくわずかに栽培されているのみとなっており、それも「もち粟」が中心で酒造に用いられた「うるち粟」の栽培は、ほぼ皆無となってしまっています。 “粟盛”の再現にあたり、全国を探し回りなんとか岩手県産のうるち粟を少量手に入れることができました。
貴重な国産うるち粟を原料に、忠孝酒造と共に沖縄と岩手のテロワールを表現する戦後初の“粟盛”づくりへの挑戦がはじまりました。
美しい麹
今回、粟盛の再現にあたって忠孝酒造が復活させた古式泡盛製法「シー汁浸漬法」を浸漬の際に使用しました。羽地産ひとめぼれ「羽地米」と「岩手県産うるち粟」を一晩シー汁に漬けた後、伝統的な米蒸の際の設備である「地釜甑(こしき)」を使用して米蒸を行います。
さらさらと目が細かい粟の粒が、ひとめぼれの隙間に入り込むことで"適度な隙間”をつくってくれた為、蒸気が米の間を通りやすくひとめぼれなどのジャポニカ米のみで作業を行う際よりも作業自体はスムーズに進行しました。 しかし、粟の適切な蒸し加減の教科書的な情報はどこにもなく、随時粟の状態を確認しながら米蒸作業は進みました。
蒸が完了した米と粟は、適度な温度に冷ました後に製麹作業に入ります。蒸しあがった原料の粟の、美しい黄色が写真からも伝わると思いますが、今まで誰も目にしたことのない製麹の様子にshimmerチームの胸は高鳴りました。
今回の#10 粟盛では#9 忠孝と同様に、戦前の複数の株の黒麴菌が混在していた時代の麹を表現する為に石川種麹店アワモリ株、サイトイ株、イヌイ株、河内源一郎商店河内菌株の4種類の種麹をブレンドして製麹を行いました。 米蒸作業と同様、さらさらとしたうるち粟がひとめぼれ一粒一粒の隙間に入り込んでいる為に、ひとめぼれのみで製麹を行った#9 忠孝の際に比べて圧倒的に製麹の作業効率が良かったことがshimmerチームの印象に残っています。
インディカ種のタイ米ではなく、ジャポニカ種やジャバニカ種といったタイ米に比べて粘り気の強い沖縄在来米が原料米として使用されていた琉球王国時代に、粟が原料の一部として使用されたのは作業効率の観点も一つの要素としてあったのかもしれません。 はじめての挑戦で心配をしていた米と粟を混ぜての製麹でしたが、二日後には粟の小さな一粒一粒にもしっかりと破精込んだ美しい黒麹が完成しました。
“粟盛”のモロミと「シー汁浸漬法」
現代では珍しい種モロミを使用した仕込を行い19日後、無事に“粟盛”のモロミの醗酵が完了しました。 モロミのアルコール度数は16%程度、前回の#9 忠孝の蒸溜前のアルコール度数が18度程度だったことを考えると約11%程度アルコールの収量が悪かったことがわかります。
モロミの写真を見て頂ければ一目瞭然ですが、米に比べて粟の粒がしっかりと残っていることがわかります。 結果から判断すると、今回“粟盛”の再現に「シー汁浸漬法」を使用したことは正解だったのではないかとshimmerチームは考えます。
乳酸菌などの活動により原料米の表面を分解し多孔質に変化させる「シー汁浸漬法」。 モロミの中の粟は溶けこそは米よりも悪かったですが、手に取るとすぐに潰れるほど柔らかくアルコール収量の計算からもしっかりと醗酵が進んだことがわかります。米に比べて破精込みやモロミの溶けが悪い粟を健全に醗酵させる為に「シー汁浸漬法」は効果的な製法であったと考えられます。 モロミからはフルーティーで華やかな香りが漂っていました。
戦後初!"粟盛”の復活
いよいよ待ちに待った、戦後初の"粟盛"の蒸溜。忠孝酒造の大城社長も記念すべき瞬間に駆けつけてくださいました。 shimmerチームも沖縄タイムス社の記者の皆さんと一緒に地釜常圧蒸留機の傍らで"粟盛"の復活を、固唾を飲んで見守りました。
モロミが焦げ付かないようにかき混ぜながらゆっくりゆっくりと弱火で火を入れていき、蒸留機内のモロミの温度が90度程度にまで上がった頃、待望の"粟盛"の初留が蒸留機から湧き出してきました。 初留は多少のガス臭は感じさせるものの、極端な粟特有の「クセ」のようなものは感じられず華やかなフルーティーな香りが特徴的でした。
末垂のアルコール度数が15%、蒸留後のアルコール度数が48.8%になるまで蒸留は続けられ、 その後加水の後に"粟盛"の原酒は熟成工程にまわされ製品化の時を待っています。
今回、#10 粟盛 羽地産ひとめぼれ50%岩手県産粟50% では、戦前の"粟盛"の味わいを可能な限り再現する為に忠孝酒造の製品としては非常に珍しい粗濾過、 その中でも可能な限り粗く濾過を行う「保安濾過」で仕上げを行います。泡盛愛好家の誰もが一度はその存在を語り、 味を想像した"粟盛"が令和の時代に復活するのです。 “粟盛”がどのような味わいなのか、ここまでこのページを読み進めてくださったあなたなら、必ずご自分の仮説があるかと思います。この機会に是非、幻の酒“粟盛”その味わいの答え合わせを、ご自分の舌でお確かめください。
萩尾 俊章
泡盛というと米の蒸留酒、しかもタイ米が原料の一般的なイメージとして定着しています。お酒は原料によって大きく香りや風味、味わいが変化するのは周知のとおりです。泡盛の原料が古い時代には何であったのか、確証がないと言うと意外に思われるかもしれない。 蒸留酒としての泡盛の始まりは16世紀あたりから記録に登場しますが、原料のことを記した資料はだいぶん後にならないと登場してこないのです。
琉球国を知る百科事典ともいえる『琉球国由来記』(1713年)には琉球の名酒・泡盛について、米・粟・稷(きび)・麦などで作ると記していて、米以外に粟や稷、麦までも含めているのは驚きです。 御用酒は、王府の役所・銭蔵から原料を酒屋に下附するもので、米または粟三俵(米一俵は三斗、粟は三斗二升)に対して泡盛酒四斗を上納する規定でした。一方、江戸で刊行された新井白石『南島志』(1719年)には泡盛は米を原料としていることが示されます。 また薩摩藩主が命じて編纂された農書『成形図説』(1804年)には、沖縄では地粟をもって焼酒を造っていたので「粟盛」と紹介しています。なお、粟を醸して釜甑で蒸留すると酒が洩れて出るので「粟洩」とも表現していますが、「粟」が強調されていることがわかります。 琉球王国解体後の明治初期にまとめられた「沖縄県旧慣租税制度」には、泡盛は本島地方で米、麦、粟を原料とするも米と粟が通例で、当時は粟のみで製造することはあまりなく、米価が高騰した時に粟と同量で混交して仕込んだとされます。 いずれにしても王国時代の伝統は主に地元産の米と粟が原料だったことがわかります。泡盛の語源には「泡が盛り上がる」形状に由来する説が有力ですが、上述のことから、沖縄学の第一人者・伊波普猷は、泡盛の原料に米と粟を使っていたこと、そもそもの初めは粟を原料に用いた可能性があり「粟もり」が語源で、「粟盛」が「泡盛」になったと考えたのです。
語源説はさておき、古くは沖縄の在来の米・粟が用いられていましたが、大正時代になると米価の高騰などの理由でタイ米に依存するようになり、粟はほとんど使っていなかったといわれます。 ただ、昭和初期でも、首里の酒造家の話として近年まで粟が米と同様に原料になったとされます。そのことは酒造家によっては粟への強いこだわりがあった証かもしれません。 戦後一時期は様々な原料により泡盛を製造したこともありましたが、改めてタイ米の輸入が始まると、タイ米の泡盛がしだいに定着して現代に至ります。 さて、沖縄の在来米と粟を原料とした泡盛が本来的な泡盛でしたが、現状ではその泡盛を賞味することはかなわず、今回のプロジェクトによりその第一歩が始まったといえます。 在来の米・粟ともに今日では調達は厳しい環境にありますが、その製造法にも興味を惹かれるとともに、どのような香り、味覚、味わいになるのか、大きく期待が膨らみます。 沖縄では古くからもち粟・うるち粟が栽培されていましたが、米と粟を同量用いた場合、一般的には粟の方が蒸留高は少なかったようです。
しかし、大正時代に泡盛の醸造調査をした田中愛穂によると、粟の澱粉含量は白米・砕米に及ばないものの、酒精収得量はたびたび内地の米または砕米よりも優ることがあったと記しています(『琉球泡盛ニ就イテ』1924年)。 味覚などはどうだったのでしょう。琉球史研究の大家・東恩納寛惇は、昭和初期の首里の酒造家の話として米酒に比べるといくぶん「コク」が足りないともいわれました(「泡盛雑考」1934年)。 それに対して、首里のある酒屋は外国の砕米に粟の少量を混合して製麹すると、風味香気の優良なる泡盛が得られるため、原料の一部に粟を採用したといいます。田中によれば、粟を用いると製品に色沢香気等を与えるという。 つまり、粟は泡盛酒に独特の香・味・色を賦与する効果があったようです。
田中は粟を原料とする泡盛の本麹製造が実際上果して特別に価するか否かは疑問であるとしつつも、泡盛原料としての粟は研究の余地があると考えていましたが、そのような取組みは大きな時代の変革・荒波のなかで埋もれたままになっていました。 大正時代に田中愛穂が研究の必要性を唱えた粟、加えて在来米を用いた泡盛造りが、ほぼ100年の歳月を経て、今ここに研究・再現されようとしています。本プロジェクトは泡盛の原点を確認し、本来の泡盛を取り戻す試みともいえるでしょう。
文・萩尾 俊章(沖縄民俗学会会長/琉球泡盛研究家)
【専門】民俗学・社会史
【著作等】『泡盛の文化誌』(ボーダーインク 2004年)、「琉球泡盛の話」『酒販ニュース』(醸造産業新聞社2021年9月~2022年5月)、『泡盛をめぐる沖縄の酒文化誌』(ボーダーインク 2022年)